そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」 マタイの福音書 3章13~17節
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1 罪の赦しのための悔い改めのしるしとして受けるのが水のバプテスマです。では、なぜ、罪なきお方であるイエスがバプテスマを受けられたのでしょう。旧約聖書から答えてください。
イエスさまが、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられている様子を絵に描いてみましょう。
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。 イザヤ書 53章12節
イエスは罪のない方でしたが、私たち人類の罪を負うために、罪人としてバプテスマを受けられました。
そのとき私は申し上げました。「今私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」 詩篇 40篇7~8節
イエスは父なる神のみこころに従順に従われ、人類の救いの御業を始められる時に、このバプテスマを受けられました。
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2 天が開け、御霊が降ることは旧約聖書の預言の成就です。どの箇所でしょう。
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天が開け、神の御霊が鳩のようにイエスに降って来られた様子を絵に描いてみましょう。
第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。 エゼキエル書 1章1節
「天が開け、私は神の幻を見た」とあります。天が開かれることは、神のことばの実現と啓示と臨在の象徴です。
その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。 イザヤ書 11章2節
「その上に主の霊がとどまる」と預言されていました。御霊が鳩のように降られたことは、イエスが預言された救い主メシアであることの公の確認でした。
神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、 イザヤ書 61章1節
イエスは宣教の初めに、このイザヤ書61章を宣言されました。
それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」 ルカの福音書 4章16~21節
まさに、天が開かれ、聖霊がイエスの上に注がれて宣教を開始されたのです。
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。 創世記 1章2節
鷲がそのひなの上を「舞う」ラハフרָחַף様子が、神の霊がその水の面を「動いていた」メラヘペトמְרַחֶ֖פֶת語根はラハフרָחַף様子と同じです。
鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。 申命記 32章11節
これらのみことばは、水から上がられたイエスの上に、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られたことを預言することばです。神の霊、聖霊が水から上られたイエスの上を舞いかけていたのです。
このバプテスマの出来事は、イエスの公生涯の始まりを告げる重要な二つのことの開始の瞬間でした。
・人類の罪を負う神の小羊としての使命の開始の瞬間。すべての人は罪を悔い改めイエスを信じ、悔い改めの水のバプテスマを受けなければならないことを示された。
・預言された救い主メシアとしての公生涯の開始の瞬間。すべての人は罪を悔い改めイエスを信じ聖霊と火のバプテスマを受けなければならないことを示された。
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3 「天が開け」と言うことばの持つ意味を考えてみましょう。原文では天が「裂ける」と書かれています。天が裂けるとはどのような意味でしょう。
「裂かれた天」の意味
「開かれた」と訳されていることばは、マタイの福音書ではアノイゴーἀνοίγωですが
イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。 マルコの福音書1章10節
この箇所では
スキゾーσχίζωということばが使われています。このことばは単に「開く」という意味ではなく、「裂く」「引き裂く」という激しい動作を表現することばです。これは神の介入による劇的な出来事を示しています。
このスキゾーσχίζωということばは、イエスの十字架の重要な場面で使用されています。
すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。 マタイの福音書 27章51~52節
神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた、スキゾーσχίζωした瞬間に、墓が開いてアノイゴーἀνοίγωして、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返って、イエスと共に昇天したのです。この様子を正面で見ていた百人隊長は「この方は本当に神の子であった。」と信仰告白に導かれています。
しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」 マルコの福音書 15章37~39節
旧約時代のモーセの幕屋には三つの区分がありました
- 外庭
- 聖所
- 至聖所
特に至聖所は厚い幕によって仕切られ、大祭司のみが年に一度しか入ることができませんでした。
しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。 ヘブル人への手紙 9章7節
二つの「裂け」スキゾーσχίζω「裂かれた天」の意味が示す神の恵み
イエスのバプテスマの時の「裂かれた天」は、十字架の時の「裂かれた幕」を啓示しています。
しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。 ヘブル人への手紙 9章11~12節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネの福音書 3章16節
これが「裂かれた天」スキゾーσχίζωの真実です。この瞬間、大切なひとり子を失った天の父のみこころが裂かれたのです。 天の父は、最愛のひとり子を十字架につけて殺すと言う御子の死により、すべての人の救いの門を開かれたのです。
こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。 ヘブル人への手紙 10章19~20節
今、私たちが主の臨在の只中を歩むことが出来るのは、ただイエスの十字架で流された血潮によるのです。
イエスが私たちと同じように罪人としてバプテスマを受けられたのには理由があります。すべての点において、私たちと同じように試みにあわれれるためです。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 ヘブル人への手紙 4章15~16節
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくために、こうして礼拝を最も大切にする民として選ばれた救われたのです。
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4 「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と言う天からの声は、ユダヤ人たちの心に深く響く、特別な意味を持つ宣言です。旧約聖書における「神の子」とされることの意味を考えてみましょう。また、私たちも「神の子」とされることを示された聖書箇所を開いて読んでください。
神の子としてのイスラエル
そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。 出エジプト記 4章22節
彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに、つまずくことのない平らな道に導く。まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」 エレミヤ書 31章9節
イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。 ホセア書 11章1節
神はイスラエルをご自分の「子」と呼ばれました。これは特別な選びと愛の関係を表現しています。
王としての「子」
私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。 詩篇 2篇7節
あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。 サムエル記 第二 7章12~14節
ダビデに与えられた預言と契約は、イスラエルの王として来られる「メシヤ」であるイエスが神の民に、神の子としての立場を回復させると言う約束です。そして、その子をしもべとして十字架の道を歩ませると言う預言です。
神のしもべとしての「子」
「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」 イザヤ書 42章1~4節
メシヤは罪人のしもべとして、仕えられるためではなく、仕えるために来られたのです。
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」 マタイの福音書 20章28節
そして、異邦人教会もイエスと同じようにイスラエルを天の父の元へ立ち返らせるためにしもべとして仕えると言う預言です。
今、主は言われる。ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎内で私をご自分のしもべとして形造った方が言われる。私は主の御目に重んじられ、私の神は私の力となられた。 イザヤ書 49章5節
神の子とされる特権
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。 ヨハネの福音書 1章11~12節
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 エペソ人への手紙 1章5節
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。 ローマ人への手紙 8章16節
神に喜ばれる者として生きるために、まず自分の「身分の確認」をしてください。
この世では部品は所詮部品です。稼働しなくなれば捨てられます。しかし、キリストのからだである教会は違います。本当に大事なことは、私は機械の部品では無いと言うことです。どんなものでも絶対に代わりが効かないと言うことです。部品ならば代わりはいくらでもあります。しかし、私たちは代わりのいない大切なキリストのからだである兄弟姉妹ひとりひとりであるのです。これが、イエスが示してくださった「父の神の真実」です。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 ヨハネの手紙 第一 4章9~10節
あなたという人はこの世にたった一人しかいないのです。代わりはいません。壊れても傷ついても代えられない大切な神の子どもなのです。ですから、もっと自分に自信とプライドを持ってください。ただの部品にはならないでください。学歴や肩書なんでどうでもいいのです。本当に大事なのは神に愛されてることと、神に召されていると言う真実に対して、どれだけ自信を持って生きることができるかです。
自分の「身分の確認」をしてください。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
これが、イエスが私たちに回復してくださった最も大切なことです。父の神の真実は「私を子として愛し、喜んでいる」と言うことです。私たちには「天の父の子としての身分」が回復されたのです。
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。 ガラテヤ人への手紙 4章7節
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。 ヨハネの手紙 第一 3章1~2節
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えましょう。ひとり子をさえ惜しまずに十字架で死に渡された。これが父のすばらしい愛です。その愛を受けて神の子とされた者はキリストが現れたときに、キリストに似た者になるります。キリストをありのままに見るからです。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と言う、イエスへの天からの宣言は、私たちが神の子とされた恵みの確かさを示しているのです。

