2026・1・1 元旦礼拝メッセージ 「エリ・エリ・アザブタニאֵלִי אֵלִי לָמָה עֲזַבְתָּנִי」 〜ダビデのオリーブ山での賛美は十字架の預言〜
わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。 詩篇 22篇1節
אֵלִי אֵלִי לָמָה עֲזַבְתָּנִי רָחוֹק מִישׁוּעָתִי דִּבְרֵישַׁאֲגָתִי׃
このダビデの賛美は、おそらくオリーブ山で歌われた賛美であると思われます。
「エリ・エリ・アザブタニאֵלִי אֵלִי לָמָה עֲזַבְתָּנִי」 ダビデのオリーブ山での賛美の真意 「聖霊を呼ぶ祈り」
エリ・エリ・アザブタニאֵלִי אֵלִי לָמָה עֲזַבְתָּנִי אֵלִי אֵלִי לָמָה עֲזַבְתָּנִי (Eli, Eli, lama azavtani) 語根 עזב (azav) の意味 「去る、離れる、見捨てる、残す、委ねる、助ける」
詩篇22:1との関連 この叫びは詩篇22:1の引用です
イエスの十字架上での叫び
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 マタイの福音書 27章46節
「もう一人の助け主」としての理解 このイエスのことばは、ヨハネ14:16で、約束された「もう一人の助け主(παράκλητος)」をこの地に呼ぶための大声での叫びであった
イエスは、罪人を贖われるため、父なる神からの見放された立場となり、父なる神も大切なひとり子をお与えくださったのです。
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。 ローマ人への手紙 8章32節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネの福音書 3章16節
このことは、創世記の預言成就と考えられます
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。 創世記 2章24節
עַל־כֵּן יַעֲזָב־אִישׁ אֶת־אָבִיו וְאֶת־אִמּוֹ וְדָבַק בְּאִשְׁתּוֹ וְהָיוּ לְבָשָׂר אֶחָד
「男は父と母を離れ」יַעֲזָב־אִישׁ אֶת־אָבִיו וְאֶת־אִמּוֹ 「離れ」が、アザブעָזַבです。 イエスは、父なる神から見捨てられることにより、十字架につかれたたことにより、「聖霊」をもう一人の助け主として、この地に呼ぶとこが出来たのです。イエスは、その「聖霊」を十字架上で大声で呼んだのです。イエスは聖霊を与えるために、十字架につかれたのです。神を恨んで言ったのでもないし、私たちのために人としての弱さを見せたのでもありません。 ギリシャ語で「Ηλι ηλι λαμὰ σαβαχθανι」לָמָּה שְׁבַקתַּנִי「どうして見捨てた」と言う記されています。しかし、これはアラム語のギリシャ語の音訳ですので、ヘブライ語本文ではありません。イエスは、あくまでも、詩篇22篇のことばを宣言したのです。
ダビデのオリーブ山での賛美との連関 オリーブ山は、ダビデが避難し、神を礼拝した場所であり、イエスが祈り、捕らえられた場所です。苦難と礼拝が交差する聖地なのです。
このイエスの十字架のことばは単なる絶望の叫びではなく、三位一体なる神の、人間を救うための壮大なドラマとして読み解く鍵となります。
オリーブ山のユダヤ人墓地は「世界最古のユダヤ人墓地で、ユダヤ人のための最大の墓地であり、150,000以上の墓」がある場所です。
旧約聖書のゼカリヤ書(14:4)で、最後の審判の日にメシヤが立ち、死者がよみがえる場所とされているため、墓地が作られるようになりました。
その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。 ゼカリヤ書 14章4節
墓地としての伝統 オリーブ山は古代から墓地として使われていたのです。
考古学的証拠 実際に多数の骸骨や古墳が発掘されているため、現在、ここがゴルゴタ(骸骨)であると言う説も多数あります。
園の存在 ゲッセマネ(オリーブ油搾り場という意味)の園がある
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」 ヨハネの福音書 20章15節
ゲッセマネ園の祈りの真意 イスラエルのとりなしの祈り
ゲッセマネの「杯」と民数記5章の関連 民数記5:11-31「姦淫の疑いの儀式」
のろいをもたらすこの苦みの水を彼女に飲ませると、のろいをもたらす水が彼女の中に入って、苦くなる。 民数記 5章24節
「呪いをもたらす苦い水」 הַמַּ֥יִם הַמְאָרְרִ֖ים (ha-mayim ha-me’ar’rim) 姦淫の疑いのある妻に、祭司が聖なる水に塵を混ぜ、呪いの言葉を書いた文書を溶かします。女性がこの苦みの水を飲むと、無実なら無害、有罪なら身体に有害となります。
その水を飲ませたとき、もし、その女が夫の信頼を裏切って身を汚していれば、のろいをもたらす水はその女の中に入って苦くなり、その腹はふくれて、そのももは痩せ衰える。その女はその民の間で、のろいの的となる。 しかし、もし女が身を汚しておらず、きよければ、罰を免れて、子を宿すようになる。 民数記 5章27~28節
旧約預言者の一貫したメタファー イスラエル = 姦淫の妻
エレミヤ3:6-10 「背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はあらゆる高い山、あらゆる青木の下に行き、そこで淫行をした」 エゼキエル16章(全章) エルサレムを姦淫の妻として描写しています。
ホセア書(全巻) ホセアの姦淫の妻ゴメルはイスラエルの霊的姦淫を表しています。 イザヤ50:1 「主はこう言われる。『わたしがあなたがたの母を離縁したとき、その離縁状はどこにあるか』」
イエスの「杯」は、姦淫の裁きの「呪いをもたらす苦い水」の杯である可能性があります。
イエスは、神の民、ご自分の民である、イスラエルのためにとりなしの祈りを最後まで、父なる神に祈ったと考えられます。
ゴルゴタは神殿が見える位置にある
すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。 彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。 マタイの福音書 27章51~53節
ヨハネ19:41との一致
イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。 その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。 ヨハネの福音書 19章41~42節
という記述と、オリーブ山の特徴は一致します。
伝統的な「聖墳墓教会」説は4世紀のローマの皇帝であったコンスタンチンの母ヘレナの特定に基づいていますが、考古学的・地理的・聖書的証拠は、ゴルゴタがオリーブ山にあった可能性を強く示唆しています。また、ゴードンのゴルゴタも考古学的にも、地理的にも証拠が不明瞭です。
旧約聖書にはオリーブ山についての興味深い記述があります。
ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、裸足で登った。彼と一緒にいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。 サムエル記 第二 15章30節
と言う記事です。
オリーブ山はダビデの時代から礼拝の場所でした。
ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来たとき、見よ、アルキ人フシャイが上着を引き裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た。 サムエル記 第二 15章32節
オリーブ山でイエスが十字架に架けられたと考えることは非常に感慨深いことです
オリーブ山の宗教的・歴史的意義の深さを物語っている聖書箇所を見てみましょう。
ダビデとオリーブ山の関係
サムエル記第二15章の記述は、ダビデがアブサロムの反乱で逃れる際の場面ですが、重要なのは32節の「神を礼拝する場所になっていた山の頂」という表現です。
これは、ダビデの時代(紀元前10世紀頃)にはすでにオリーブ山が礼拝の聖地であったことを示しています。
歴史的連続性
オリーブ山は ダビデが苦難の中で礼拝した場所であり、イエスが最後の週にゲッセマネで祈り、苦悩された場所であり、イエスが十字架で死なれた場所であり、葬られた場所であり、復活された場所であり、再臨される場所でもあるのです。 この歴史的連続性は偶然ではないでしょう。ダビデが王としての最も困難な時期に神を求めた場所で、「ダビデの子」として来られたイエスが、人類の救いのために命をささげられたとすれば、それは神の摂理の深い計画を示しているでしょう。
詩篇との関連 ダビデの詩篇の多くが、このような苦難の経験から生まれたことを考えると、イエスが十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(詩篇22:1)と叫ばれたことも、より深い意味を持つように思えます。 考古学的・地理的・聖書的研究は、単なる場所の特定を超えて、救済史の深い意味を明らかにするでしょう。
ダビデの詩篇22篇は、オリーブ山でささげられた賛美であろうと私は考えています。それは、イエスの十字架での叫びであり、メシヤの十字架の預言そのものなのです。
わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。 詩篇 22篇1節
しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。 詩篇 22篇6節
なぜイエスは、ご自分を「虫けら」と呼んだのか 「虫けら」とは、ヘブライ語でトウラトתּוֹלַעַת 「緋の虫、虫」と言います。緋色の染料を出す虫がתּוֹלַעַת(トーラート)です。 カイガラムシの一種で、雌の虫が卵を産む時、木に付着して死に、その死骸から緋色の染料が採取されます。
雌の虫が木に付着し、卵を産むと同時に、体から緋色の液体を分泌し、その液体が卵を覆い、保護します。母虫は死に、緋色の染料を残し、3日後、殻から新しい虫が生まれるのです。この木は、イエスの十字架の木であり、緋色の液体はイエスの血であり、死んで子を守るのは、私たちを救うための死なれ守り、3日後の誕生とは、3日目に復活されたことと同じことです。
私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。 詩篇 22篇7節
「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」 詩篇 22篇8節
彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。 詩篇 22篇18節
子孫たちは主に仕え主のことが世代を越えて語り告げられます。 彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。 詩篇 22篇30~31節
これらの預言はイエスの十字架ですべて成就されました。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 マタイの福音書 27章46節
通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。 マタイの福音書 27章39節
彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」 マタイの福音書 27章43節
彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。 マタイの福音書 27章35節
イエスの十字架のみわざが、世代を越えて語り告げられ出来ました。主の義が十字架により表されたのです。教会は主の義である十字架を告げ知らせなければなりません。十字架により主が義を行われたからです。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。 ペテロの手紙 第一 2章24節

