2026・1・11 主日礼拝メッセージ 聖餐式 「種のできる草、種の入った実を結ぶ果樹」後編 〜みことばによる終末の刈り入れ〜
神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。 創世記 1章11~12節
וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים תַּדְשֵׁא הָאָרֶץ דֶּשֶׁא עֵשֶׂב מַזְרִיעַ זֶרַע עֵץ פְּרִי עֹשֶׂה פְּרִי לְמִינוֹ אֲשֶׁר זַרְעוֹ־בוֹ עַל־הָאָרֶץ וַיְהִי־כֵן
וַתּוֹצֵא הָאָרֶץ דֶּשֶׁא עֵשֶׂב מַזְרִיעַ זֶרַע לְמִינֵהוּ וְעֵץ עֹשֶׂה־פְּרִי אֲשֶׁר זַרְעוֹ־בוֹ לְמִינֵהוּ וַיַּרְא אֱלֹהִיםכִּי־טוֹב
創造のことば(11節) וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים תַּדְשֵׁא הָאָרֶץ דֶּשֶׁא Vayomer Elohim tadshé ha’aretz déshe 「神は仰せられた。地は植物を芽生えさせよ」 תַּדְשֵׁא (tadshé) 「芽生えさせよ」は、ダーシャー(芽を出す)のヒフィル態未完了形です。これは、その地「エルサレム」自身が生み出す力を持つことを示唆していると考えられます。
多くの民族が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。 イザヤ書 2章3節
エルサレムが「種のできる草」עֵשֶׂב(eh'seb)エセブを生み出す預言です。「種」זֶרַעザラは、みことばのことであり、メシヤであるイエスのことを指しているのです。
עֵשֶׂב מַזְרִיעַ זֶרַע ésev mazría zéra 「種のできる草」とは「みことばを持つ人」のことを意味します。「種のない草」もあります。
主は家畜のために草をまた人が労して得る作物を生えさせます。地から食物を生じさせてくださいます。 詩篇 104篇14節
מַצְמִיחַ חָצִיר לַבְּהֵמָה וְעֵשֶׂב לַעֲבֹדַת הָאָדָם לְהוֹצִיא לֶחֶם מִן־הָאָרֶץ
「家畜のために草」חָצִיר לַבְּהֵמָה この「草」のことを חָצִיר khaw-tseer'ハツィールと言います。「種のない草」のことです。 בְּהֵמָה be-hay-maw'ベヘマは「家畜」と訳されていますが「獣」のことです。「獣」は、この「種のない草」が大好物です。純粋な神のことばよりも、混ぜ物が入ったメッセージが好きなのです。
むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。 テサロニケ人への手紙 第一 2章4節
「人が労して得る作物」וְעֵשֶׂב לַעֲבֹדַת הָאָדָם עֵשֶׂב eh'sebエセブ「種のある草」のことです。「労して」とは、עֲבֹדָה ab-o-daw'アボダハ「仕える者」。הָאָדָם hā'āḏāmと言う意味です。「人」はハアダム「イエス」のことです。すなわち、「みことばを持つ人として、人に仕える者として来られたイエス」のことを意味していると考えられます。
מַזְרִיעַ (mazría) はזֶרַעのヒフィル態分詞で「種を生み出すもの」と言う意味です。 זֶרַע (zéra)は 「種、子孫、末裔」です。創世記3:15の「女の子孫」と同じ語根で、メシア預言を示唆することばです。
עֵץ פְּרִי עֹשֶׂה פְּרִי לְמִינוֹ étz pri oseh pri lemino 「種類ごとに実を結ぶ果樹」とは、לְמִינוֹ (lemino) 「その種類に従って」「神の定めた秩序と法則性に従って」収穫されると言う意味であると考えられます。
ことばの実現(12節) וַתּוֹצֵא הָאָרֶץ Vatotze ha’aretz 「地は生じさせた」וַתּוֹצֵאは、יָצָאのヒフィル態で「生じさせる、引き出させる」と言う意味です。הָאָרֶץである「エルサレム」から「みことば」が引き出されることの宣言です。
「シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ」と言うイザヤの預言の状態です。
神の「ことば」への応答の実現です。新しいエルサレム「花嫁」は「神のことばに」受動的でなく能動的に応答するようになるのです。
イエスのたとえ 種蒔きのたとえ(マタイ13:1-23)
このたとえの意味はこうです。 「種は神のことばです」 ルカの福音書 8章11
創世記のזֶרַע (zéra/種)は「神のことば」のことであり、メシア(女の子孫)のことであり、アブラハムの子孫のことです。 これらすべてを預言的に含んでいます。
4つの地と収穫 1. 道端 /御言葉が奪われる(鳥とは悪魔) 2. 岩地 /根がなく枯れる(試練に耐えられない) 3. 茨の中 /この世の心配で実を結ばない 4. 良い地 /30倍、60倍、100倍の実を結ぶ
麦と毒麦のたとえ(マタイ13:24-30, 36-43) ゼザニアンζιζάνιον「毒麦」と訳されていますが、これは「麦」が「裸黒穂病」で、その種子を失うことを意味します。要するに「種のない草」のことです。「麦」は、セタスσῖτοςです。これは「種のなる実を実らせる草」です。良い種が畑に蒔かれれば、当然、良い実を結びます。
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。 マタイの福音書 13章24~25節
しかし、敵である「悪魔」が来て「毒麦」を蒔きます。「種を持っている麦」を「裸黒穂病」に感染させ、実を実らせないようにするためです。ですから、26節の「麦」は、原文ではハルトスχόρτοςと言い「麦」ではなく「草」なのです。この「草」とは、ヘブライ語のחָצִיר khaw-tseer'ハツィール「種のない草」のことです。
麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。 マタイの福音書 13章26節
「ある人が自分の畑に良い種を蒔いた」のに「人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った」ので、畑はחָצִיר khaw-tseer'ハツィール「種のない草」で満ちてしまったのです。
それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』 マタイの福音書 13章27節
この「毒麦」はどこから来たのでしょう。
主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』 しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。 だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」 マタイの福音書 13章28~30節
この解き明かしをイエスはしています。
イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。 畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。 人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、 火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。 マタイの福音書 13章37~43節
「良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです」 このたとえは、同じ畑(世界)に両方が存在し、成長して刈り入れまで共存し、終わりの日に分離されることを意味しています。 教会が眠っていると、悪魔が来て、私たちの地である「たましいに」に、毒を蒔いて、種であるみことばを失わせ、病気にして実を結ばないようにすると言うのです。教会を「雑草だらけ」にするのが悪魔の目的です。それが、終末「世の終わり」に起きることです。いわゆる「総仕上げ」スンテレアσυντέλειαです。その3日目のことが創世記と黙示録で預言されているのです。
ζιζάνιον/ゼザニアンとは、「毒麦」と訳されていますが、裸黒穂病(Ergot)に感染した穀物を指します。それは種子を失い、実を結ず、見た目は麦に似ていますが外見では善悪の区別がつかず、健康な麦を感染させる可能性 があり囲に悪影響を与えるのです。 ζιζάνιον/ゼザニアンとは、麦でも生命力・生殖能力のない病気の麦であり、単なる「悪意のある者」ではなく、信仰の実を奪う感染症です。
σῖτος(セタス) 良い麦 種を実らせる。刈り入れの対象。 ζιζάνιον(ゼザニアン) 病気麦 / 裸黒穂病麦 外見は麦に似るが種を結ばない。感染源となる。 χόρτος(ハルトス) חָצִיר(ハツィール) 草 種を持たない、家畜のための草。人の労力で得る食物と対比。 χόρτοςハツィールは、創造の第三日で出てきた「種のない草」、つまり人や家畜のためにあるが、神の約束の「実」を結ばないもので、ζιζάνιον/ゼザニアンは、同じ「麦畑」に混ざるが、生命を奪う潜在的脅威。見た目は麦でも実を結ばず、周囲を害するものです。外見は正しいように見えても、霊的には実を結ばないようにさせるのが悪魔の目的です。聖書の「良い種」と「悪い種」の区別は、外見ではなく生命の実り・種の有無で決まります。ζιζάνιον/ゼザニアンは、病気・偽りの教え・信仰を枯らす力の象徴として、終末の刈り入れまで成長するが、最終的には裁かれるのです。
偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。 マタイの福音書 7章15~20節
ζιζάνιον/ゼザニアンは単なる「毒麦」ではなく、「種を失った病気麦」であり、外見では善に似せているが、実を結ばず、周囲に悪影響を与える存在を示しています。イエスは、σῖτος(良い麦)との対比で、見かけではなく霊的生命・実りが重要であることを示しているのです。
黙示録の第三の封印、ラッパ、鉢と、審判と希望
第三の封印 地の産物(黙示録6:5-6)
子羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。すると見よ、黒い馬がいた。これに乗っている者は秤を手に持っていた。私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の真ん中でこう言うのを聞いた。「小麦一コイニクスが一デナリ。大麦三コイニクスが一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」 ヨハネの黙示録 6章5~6節
地(אֶרֶץ)の産物をめぐる審判 創世記1章で地が植物を生み出したことと対照的に、黙示録では産物が欠乏して行きます。今、世界的飢饉が来ようとしています。世界同時恐慌のリスクが高まりつつあります。長引く戦争、自国ファースト主義の流行。中東の危機。日本では円高が止まりません。しかし「オリーブ油とぶどう酒を損なってはいけない」とあるのは審判の中にある憐れみでしょうか。
第三のラッパ 水の苦さ(黙示録8:10-11)
第三の御使いがラッパを吹いた。すると、天から、たいまつのように燃えている大きな星が落ちて来て、川の三分の一とその水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と呼ばれ、水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。 ヨハネの黙示録 8章10~11節
創世記1:9で「天の下の水」が秩序づけられたことと対照的に、黙示録ではバビロンの大淫婦によって水が汚染されます。 出エジプト記15:22-25のマラの苦い水(מָרָה)が木によって甘くされたように、十字架の木によって、審判の水はいのちの水に変えられます。
第三の鉢 川と水の源(黙示録16:4-7)
第三の御使いが鉢の中身を川と水の源に注いだ。すると、それらは血になった。 また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「今おられ、昔おられた聖なる方、あなたは正しい方です。このようなさばきを行われたからです。彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは彼らに血を飲ませられました。彼らにはそれがふさわしいからです。」また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ、全能者なる神よ。あなたのさばきは真実で正しいさばきです。」 ヨハネの黙示録 16章4~7節
水が血になるとは「神のさばき」を表しています。モーセのエジプトのファラオに対するさばきの三つの印のの一つです。
第三の鉢も水に関わります 第三のラッパでは川と水の源が苦くなる(三分の一) 第三の鉢では川と水の源が血になる(全て) 創世記1:9で水(מַיִם)が集められ、秩序が与えられたことの逆転です。
しかし重要なのは、御使いの宣言です。
「今おられ、昔おられた聖なる方、あなたは正しい方です。このようなさばきを行われたからです。彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは彼らに血を飲ませられました。彼らにはそれがふさわしいからです。」
これは義なる審判であり、殉教者の血に対する神の応答です。 創世記1章で水が秩序づけられたのは「いのち」のためでしたが、黙示録では、その水を「いのち」に反して生きていた者たちへの審判です。
新しい天と新しい地 海の消滅(黙示録21:1)
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(καὶ ἡ θάλασσα οὐκ ἔστιν ἔτι) ヨハネの黙示録 21章1節
創世記1章で神が地と海を分離されたように、黙示録では海が完全に除去されます。
イザヤ11:9の成就 「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」 地(אֶרֶץ)が海(יַמִּים)を吸収し、すべてが聖なる地となると言う預言です。
まだ完成していない預言 第三段階 ゼカリヤ書12章10節 メシアであるイエスを受け入れる 「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆く」
イスラエルの民がイエシュア(יֵשׁוּעַイエス)をメシアとして認識する日です。 これが霊的覚醒、エゼキエル37章の第三段階です。
ローマ書11章25-26節 全イスラエルの救い 「イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうしてイスラエルはみな救われる。 『救い出す者がシオンから来て、ヤコブから不敬虔を取り払う』」 全イスラエルの救い、物理的帰還の後に来る、霊的帰還です。
第三日の復活 最終的希望 ホセア6:2 「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせてくださる」 イエスの復活(マタイ12:40、ルカ24:46)は、第三日の死の混沌(海)から、復活のいのち(地)の希望へと変えてくださいます。
Iコリント15:20-23
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。 コリント人への手紙 第一 15章20~23節
「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」 創世記1:11で、第三日に地が植物を芽生えさせたように、キリストは復活の初穂として新しい創造を始められます。
希望(ティクヴァ)の三重の成就 創世記1章9節の「יִקָּווּ הַמַּיִם אֶל־מָקוֹם אֶחָד」(水よ、一つの所に集まれ)は、三つのレベルで成就します
- 創造の成就(物理的) 天の下の水が海に集められ、地が現れた(カナンへの道が開かれた)のです。
- イスラエルの回復(歴史的・預言的) 諸国民という「海」の中に散らされたイスラエルが、エレツ・イスラエルという「一つの所」に集められ、1948年に建国し、この預言は成就します。しかし、まだ完成していません。霊的な覚醒(ゼカリヤ12:10、ローマ11:26)がなされていません。
- 終末的完成(霊的・普遍的) すべての贖われた者が、新しいエルサレムという「一つの所」に集められ、もはや海もない(黙示録21:1)状態にまで完成すると言うのが聖書の預言です。
קָוָה(カヴァ)「集まる」ことと「望み」こと
2000年間、ユダヤ民族は望みし続けました。その希望をティクヴァ(תִּקְוָה)と呼びました。1948年、神はその希望を現実にされました。「天の下」のあらゆる地から「一つの所」エルサレムへです。しかし、これは終わりではなく、始まりです。
第三の封印と第三のラッパと第三の鉢によるさばきを通らなければなりません。メシヤである主イエスが再臨され完結します。新しい天と新しい地、新しいエルサレム、キリストの花嫁の登場です。その時、汚染されたバビロンの大淫婦と獣の影響を受けた海が消滅し地に完全な勝利がもたらされるのです。
審判の中にも、希望があります 私たちは告白告白します 「עוֹד לֹא אָבְדָה תִּקְוָתֵנוּ」 「私たちの希望はまだ失われていない」「希望は失望に終わらない」のです。 なぜなら、私たちの希望は、第三日によみがえられた主イエス・キリストだからです。 主を待ち望む者は新しく力を得る(イザヤ40:31קוֹיֵ יְהוָה)のです。

