2025・12・21 主日礼拝メッセージ 新創世記④ בראשית 「光と闇が分けられる」
神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。 創世記 1章4~5節
וַיַּרְא אֱלֹהִים אֶת־הָאוֹר כִּי־טוֹב וַיַּבְדֵּל אֱלֹהִים בֵּין הָאוֹר וּבֵין הַחֹשֶׁךְ
וַיִּקְרָא אֱלֹהִים לָאוֹר יוֹם וְלַחֹשֶׁךְ קָרָא לָיְלָה וַיְהִי־עֶרֶב וַיְהִי־בֹקֶר יוֹם אֶחָד
この創世記の第一日の記述は、単なる物理的な光の創造の記録ではありません。ここには、神の救済史の全体の奥義が預言されているのです。ヘブライ語の原文から、そして新約聖書の光に照らして、この深遠な真理を解き明かします。
神は光を「良し」と見られた / טוֹב(トーブ)の意味 ヘブライ語の「良し」טוֹב(トーブ)が示すもの
創世記1章4節で使われている「良し」という言葉は、ヘブライ語で טוֹב(トーブ) です。この言葉は単に「good」という以上の意味を持ちます。
「完全性」欠けたところがない 「愛と美」神の性質を反映している 「みこころ」神のご計画に完全に合致している 「善」罪や欠陥のない純粋さ などです。
神が光を「良し」と見られたということは、この光が神ご自身の性質を反映していることを意味します。
新約聖書における光
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。 ヨハネの福音書 1章4~5節
ヨハネの福音書1章4~5節は、この創世記の光について解き明かしています。
さらに、ヨハネは明確に宣言します。
私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。 ヨハネの手紙 第一 1章5節
イエス・キリストご自身も言われています。
イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」 ヨハネの福音書 8章12節
創世記第一日の「光」は、メシヤの到来を預言しているのです。神が光を「良し」と見られたのは、御子イエス・キリストを「良し」と認められたことの予表でもあると考えられます。
光と闇を分けられた / הִבְדִּיל(ヒブディル)の意味 終わりの時代の分離 「分けられた」というヘブライ語 הִבְדִּיל(ヒブディル) は、単なる物理的分離ではなく、語根はバダルבָּדַל「聖別、区別、分離 」という深い聖書的意味を持ちます。 この言葉は、聖書全体を通じて重要な概念です レビ記では、聖なるものと俗なるものをバダルבָּדַל「分ける」時に使われます。
こうしてあなたがたは、聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものとを分け、 レビ記 10章10節
これは祭司の重要な役割として、聖と俗、きよいものと汚れたものを区別することが命じられている箇所です。アロンの子ナダブとアビフが「異なる火」を主の前に献げて死んだ直後に語られた言葉で、非常に重要な文脈です。
イスラエルを諸国民から「分ける」時に用いられています。
私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」 出エジプト記 33章16節
光と闇を「分ける」と言うことは、聖と俗、神の民と世の民を「分ける」と言う意味があるのです。
新約における分離の啓示 「正義と不法」を「分ける」
パウロはこの分離の原則を適用しています。
不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。 神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」 コリント人への手紙 第二 6章14~18節
イエスのマタイ25章31~46節の羊と山羊の分離のたとえは、最終的な「光と闇」の分離を示しています。
神が「光と闇を分けられた」ことは、次のことを啓示しています 光と闇は本質的に相容れない 神は混沌を秩序へと変える方 最終的な裁きにおける分離の予表 聖徒と不信者の分離
昼と夜の命名 /神の主権と秩序 命名の意味 神が光を「昼(יוֹם ヨーム)」と名づけ、闇を「夜(לַיְלָה ライラ)」と名づけられたことは、重要な聖書的真理です。 神が昼と夜に名前をつけられたことは、時間に対する神の絶対的主権を示しています。
イエスの昼と夜のたとえ
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。 ヨハネの福音書 9章4~5節
イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」 ヨハネの福音書 11章9~10節
イエスは、昼を「 恵みの時代働き」の時として、夜を 「裁きの時代、暗黒」の時として語られました。
「夕があり、朝があった」/逆説的な順序の意味 ヘブライ語の時間概念
ヘブライ語では、一日は 夕から始まります。「夕があり、朝があった(וַיְהִי־עֶרֶב וַיְהִי־בֹקֶר)」という順序は、ヘブライズムの時間認識を反映しています。ここには深い霊的真理があるのです。
闇から光への救済史 この順序が示すのは 人類は闇の中から始まった(罪の中にある人間の状態) しかし朝、すなわち光が訪れる(救いの約束) 神の救いは必ず闇の後に訪れる 試練の夜の後に、栄光の朝が来る と言うことです。
まことに御怒りは束の間いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。 詩篇 30篇5節
復活の主イエスも、金曜日の夕に十字架で死なれ、日曜日の朝に復活されました。「夕があり、朝があった」これは復活の預言でもあるのです。
夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。 ローマ人への手紙 13章12節
創造の第一日と黙示録の第一 /封印・ラッパ・鉢 創造の七日間と大患難時代の七年 創世記の七日間の創造と、黙示録に記された七年間の大患難時代には、驚くべき関係があります。
第一の封印・ラッパ・鉢とのリンク 第一の封印(黙示録6:1-2)白い馬
また私は、子羊が七つの封印の一つを解くのを見た。そして、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得るために出て行った。 ヨハネの黙示録 6章1~2節
原文では 「見よ、小羊が七つの封印を解くのを」 「見よ、白い馬。これに乗っている者は弓を持っており、冠を与えられて、勝利の上にさらに勝利を得ようと出て行った。」 と書かれています。
これは偽キリスト(反キリスト)の登場です。創世記第一日に神が真の光を創造されたように、大患難時代の初めには偽りの光(偽キリスト)が現れます。光と闇の分離が始まるのです。
第一のラッパ(黙示録8:7)地と木と草への裁き
第一の御使いがラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火が現れて、地に投げ込まれた。そして地の三分の一が焼かれ、木々の三分の一も焼かれ、すべての青草も焼かれてしまった。 ヨハネの黙示録 8章7節
これは創造の秩序の逆転です。神が第一日に光を創造され、後に植物を創造されましたが、大患難では創造の順序が逆に破壊されていきます。
第一の鉢(黙示録16:2)悪性の腫物
第一の御使いが出て行き、鉢の中身を地に注いだ。すると、獣の刻印を受けている者たちと獣の像を拝む者たちに、ひどい悪性の腫れものができた。 ヨハネの黙示録 16章2節
これは光と闇の最終的分離です。獣の刻印を受けた者(闇に属する者)と、神に属する者(光に属する者)が、身体的にも明確に区別されるのです。
世の終わりにおける光と闇の分離 創世記第一日の「光と闇の分離」は、黙示録において三段階で完成します
封印/霊的分離の始まり(偽キリストの登場による選択の時) ラッパ/物理的環境における分離(創造の部分的破壊) 鉢/完全な分離(救われる者と滅びる者の明確な区別)
創造の七日間と大患難時代の七年 対比 創世記の創造の七日間は、終末の七年間の預言的型です。 創世記第一日 光の創造〜光と闇の分離〜秩序の始まり〜「夕があり、朝があった」希望の約束
大患難時代の第一年(初期) 偽りの光(反キリスト)の登場〜真の光に従う者と偽りの光に従う者の分離〜世界秩序の再編〜夕(苦難)から朝(キリストの再臨)への進行
神の完全な計画 神が七日間で創造を完成されたように、七年間の大患難を通して、神は救済史を完成されます。 創世記第一日が全創造の基礎であったように、大患難時代の初めは、新しい創造(新しい天と新しい地))への序曲なのです。
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」 ヨハネの黙示録 21章1~5節
光の子として歩む決断
あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。 エペソ人への手紙 5章8節
闇との明確な分離 世と妥協しない生き方 聖別された生活 光を証しする生活 夕から朝への希望 試練の中にも朝(救いの完成)への希望を持つ 「夜は深まり、昼は近づいている」という終末論的緊張感を持つ
働きの時を理解する
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。 ヨハネの福音書 9章4節
今は恵みの昼間 福音を伝える緊急性 暗黒の夜(大患難時代)が来る前に
神が創世記第一日に「光あれ」と言われた時、それは単なる物理的光の創造ではありませんでした。それは、やがて来られる「世の光」イエス・キリストの預言でした。神が光と闇を分けられたことは、最終的に神の民とこの世の民が分けられることの預言です。神が昼と夜に名前をつけられたことは、時間に対する神の絶対的主権を示しています。 「夕があり、朝があった」という順序は、十字架の死から復活の栄光へ、試練から勝利へという神の救済の原則を示しています。 そして、創世記第一日は、黙示録の第一の封印・ラッパ・鉢において、光と闇の最終的分離として成就されます。 私たちは今、恵みの昼間に生きています。しかし、夜は近づいています。今日、あなたはどちらの側に立っているでしょうか。光の側ですか、それとも闇の側ですか。 イエス・キリストは言われます
イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」 ヨハネの福音書 8章12節
この光なるイエスを信じ、従う決断をしましょう。
私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。 ヨハネの手紙 第一 1章5節
「神は光であり、神には闇が全くない」のですから。

